「だまされてないですか?!」 理性について

こんにちは、宿木御法です。

気功を仕事にしようと準備を始めてから、よく言われるようになったのがこの言葉です。

「気功の先生に、だまされてるんじゃないの?」

こう聞かれると、何と答えたら良いか分かりません(´ー`)

だって、「だまされてないよ」って答えても、答えなくても

相手が感じることは同じじゃないですかね。もし「だまされて」いたら、「だまされているかどうか」は本人には分からないはずですよね。

だから、「だまされているかどうか」の返事の代わりに「理性」についての私の考えを書きたいと思います。

 

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「理性」とは何か

一義流気功の師、小池先生は「理性」についてこのように言っています。

理性とは、正しい心ではありません。理性は、区別する能力です。

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たとえば「固着した悪意」の影響が大きい人は、怒りを触発されて攻撃性を抑えにくくなったとき、こんなふうに思うかもしれません。

「こんなひどいことをされたんだから、やり返しても良いはずだ」と。

「固着した悪意」は一義流気功の知識体系に属する概念です。くわしくは以下のいずれかの記事をご覧ください。 

気功メニュー 固着した悪意の解体 - 宿木御法のWhite Magic Life!

すぐにけんかしてしまうのはなぜ?(一義流気功 for children) - 宿木御法のWhite Magic Life!

 「やり返しても良い状況かどうか」を決めてしまうのは、理性です。

「理性」は区別する能力。

「やり返して良い状況かどうか」を、他の場合と区別して、「これは他と違って、やり返して良い状況だ」と判断してしまいます。

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「やり返しても良い」=間違った考え?

この判断が「正しいかどうか」ということを、私が決めることはできません。

現代の日本の社会においては、「正しい」とは言えないかと思います。どんな行為であれ、「やり返す」という意識がベースにあるのは良くないはずです。

でも、異なる文化圏ならどうでしょう?

あるいは、異なる時代なら。

古今東西の歴史を遡れば、現代からは考えにくいような過酷な刑罰が存在していたという地域や時代もあります。

ついちょっと前、日本でも戦時中は現代とは全く異なる価値観のもと、国をあげて戦争に向かっていました。そのさなかでは、敵国の兵士を殺しても「戦争に勝つこと」が価値だと思われていました。現代からは考えにくいですが、その時代には「日本が戦争に勝つこと」に協力するのが「正しい」と思われていたのです。

 

「正しさ」とは?

話がふくらみましたが、何が言いたいかというと、

「正しい心」は時代や文化によって異なる特殊なものだけど、

「理性(区別する能力)」はもっと普遍的なもの

ということです。

 

理性がしっかりと働く状態ならば、自分の価値観を相対化することができます。

「自分の価値観を相対化する」というのは、たとえばこんな風に考えることです。

「唯一の正しさなんてない。自分の考える正しさも、普遍的な価値ではない」

つまりはそれが、だまされたり、流されたりしないことの条件なんだと思います。

 私が人に示せるのは、私が私の「理性」で「一義流気功が人の役に立つものと判断した」ということだけです。

 

「理性」の対極にあるのは「狂気」だと思います。

「理性」が「区別する能力」ならば、

「狂気」は「区別する能力を弱らせるもの」と言えると思います。

 

人間なので「絶対」ということは必ずしも言えないと思いますが、私は「狂気」に心を奪われることなく、自分の「理性」がおかしなものに加担しないようにいつも注意を払っていたいと考えています。