異常反応と生きる③ 異常反応と文学
こんにちは、宿木御法です。
高校生のころ、現代文の教科書に載っていた「赤い繭」という作品が私は好きでした。安部公房という人が書いた短編小説です。
自分の家を探して歩いていた主人公が、家を見つけられず、最後には体が糸のようにほぐれて繭になってしまうお話です。
現代文の授業で初めて読んだとき、
「なんだ、この…
すばらしい作品は!」
と思いました。ストーリーだけでなく、作品の雰囲気や表現など、とにかくすべてに惹かれました。しかしそれを友達に話しても、
「えーっ、どこが?」
と意見が合わなくて、正直びっくりしました。
同じ教室で、毎日同じ授業を受けていて、しかも気の合う友達なら自分と同じようなことを感じているのではないか…と(当時は)勝手に思っていました。
でも、そうじゃなかった
それを知った切なさ。
そして、あのわけの分からないお話が好きな自分というのは
どういう人間なんだろう
と思いました。
その当時はもちろん分かりませんでしたが、今考えると「赤い繭」の異常反応的なところに惹かれたのかなと思います。
「異常反応」は一義流気功の知識体系に属する概念です。くわしくは以下のいずれかの記事をご覧ください。
一義流気功の創設者である小池先生は、「異常反応は理性と分離して心の中で勝手に狂った精神活動を引き起こす」と言っています。
(そのことについてはこちらの過去記事に書きました)
小池先生は過去に異常反応が30%あり、時々死に誘惑されることがあったそうです。
10代の頃、私も死に憧れる瞬間はありました。死でなくても、何かどう考えても正気じゃないことを「いいなあ」と思うこともありました。もちろん実行はしませんが、たとえば小説の中にそういうものが出てきたら「あっ、いいなあ」と思ったりしていました。だから「赤い繭」もその一つだったかもしれません。
私は過去に異常反応が24%ありました。30歳頃に小池先生のところで異常反応の解体気功を受け、今は0%になっていますが、高校生の頃は以下の過去記事のような感じでした。
「赤い繭」の主人公にも、ちょっと正気じゃないところがあると思います。人の家に行って「ここは私の家ではなかったでしょうか?」と聞くのもおかしいし、拒絶されてあんなに悩むのもおかしい。そして最後には家に住むべき自分が「家」になってしまうのも、やっぱりおかしい。でも私は、それを「素敵だ」と思ったんです。
「繭の中だけはいつまでも夕暮れで、内側から照らす夕焼けの色に赤く光っていた」
(安部公房「赤い繭」より引用)
というところも、とてもきれいだと思いました。意味が分からないとか、筋が通らないなんてそんなこと関係ないと思っていました。
そんな高校生の私が心惹かれるものは、この小説以外にもたくさんありました。高校生の頃は、たとえば歌の歌詞なんかでも、似たようなものを好んで聞いていたように思います。異常反応エッセンスみたいなものがあって、そういうものに結構敏感に反応していたかもしれません。
「異常反応の解体」は、他にはない一義流気功独自の技術だと私は思います。私自身異常反応の解体を受けて以降、大きな効果を実感してきましたし、また多くの方の役に立つ技術だとは思っています。
では「誰もが異常反応の解体を受けるべきなのか?」というと…
私はそうは思いません。その理由は、異常反応は文学との関連が深い
と考えるからです。文学に限らず、芸術全般かもしれません。優れた作品を生み出すのに異常反応が一役買っているとすら私は思います。
だから、一概に異常反応は有害で不要なものだなんてことは言えないと思っています。