愛の力 ダンブルドア校長の教え
こんにちは、宿木御法です。
過去記事で愛05について書きましたが、愛のことを考えるとき、私は『ハリー・ポッター』のことを考えます。
ハリー・ポッターのこと考えてた!
(今日の記事はハリポタのネタバレを含みますので、今からハリポタを大事に読もうと思っている方はご注意ください)
大学一年生のころからハリポタを愛読してきた私ですが、
主人公のハリー・ポッター、なんであんなひどい家庭で育ったのに、自己肯定感が強いんだろうな?
というのがかねてからの疑問でした。
ハリーが1歳の時、両親が闇の帝王(ヴォルデモート)の犠牲になって以来、みなしごになって、
母親の妹(ペチュニアおばさん)の家で育てられることになって、
ほとんど虐待のような扱いを受けて育ったというのに。
物置に閉じ込められたり、ほとんどいないかのように扱われたりして、わりとひどい幼少期(という物語設定)なのに。
ハリーがホグワーツ魔法学校に入ってからは、勇敢で、友だち思いで、年端もゆかぬうちに大蛇やドラゴンに立ち向かっちゃうのはすごくないか?
とも思っておりました。
ハリー・ポッターシリーズの第1巻『ハリー・ポッターと賢者の石』の中に、ダンブルドア校長のこんな言葉があります。
君の母上は、君を守るために死んだ。ヴォルデモートに理解できないことがあるとすれば、それは愛じゃ。君の母上が、その愛の印を君に残していくほど強いものだったことに、彼は気づかなかった。傷跡のことではない。目に見える印ではない……それほどまでに深く愛を注いだということが、たとえ愛したその人がいなくなっても、永久に愛されたものを守る力になるのじゃ。
『ハリー・ポッターと賢者の石』(第17章 二つの顔をもつ男)より引用
ハリーは1歳の時までしかお母さんと一緒にいませんでしたが、
期間の長さじゃなくて、
もらった愛の深さと強さが重要。
という風に、この部分を読んでもいいのかなと思います。
(あくまで個人的な解釈です。)
一義流気功には「愛05」というメニューがあります。
minori-yadorigi.hatenablog.com
一義流気功では「愛」について、(ただの情とか道徳心などとは違い)かなり実体のある一種の想念であることを想定していると私は思っています。
だからもしかしたら、ここでダンブルドア校長が言っていることと重なりがあるのかな?と思ったりします。
(あくまで個人的な解釈です。)
ご注意
ここまで、「愛が普遍的で至上の価値があるものだ」といっているように見えるかもしれませんが、そこまで言えるかどうかは私には分かりません。
ただ、地球の現代の、私たちが生活している社会では、「愛」は有用な価値であると思うだけです。
参考資料